海外の街角で、フィリピンから来たお手伝いさんたちが英語で話しているのを、何度も見かけた。子どもをあやしながら、雇い主と段取りを確かめながら、ごく自然に英語で仕事を回している。
それを見るたびに思う。日本人だって、中学から何年も英語を習ってきたはずなのに、と。
フィリピンでは、英語は公用語のひとつだ。学校でも、多くの授業が英語で行われる。英語に触れてきた量が違う、と言えばそれまでだ。でも彼女たちの英語には、量だけでは説明できないものがある。間違えることを、まるで怖がっていないのだ。
教室で、声が小さくなる

英語の授業で、教科書を一文ずつ音読させられた。そんな記憶がある人は多いと思う。順番が近づくにつれて、心臓の音が大きくなっていく。
ネイティブっぽく発音すれば「なにカッコつけてるの」と笑われそうで、カタカナ英語で読めばそれはそれで恥ずかしい。どちらを選んでも居心地が悪いから、いちばん目立たない、抑揚のない読み方に落ち着いていく。
こうして教室で、英語の声は少しずつ小さくなっていく。
怖いのは、間違いより「変な音」
英語が話せない理由を聞かれると、多くの人は「単語を知らない」「文法が苦手」と答える。でも、本当に足りないのは知識なのだろうか。
私たちが怖がっているのは、間違えることそのものより、慣れない音を出す自分を見られることだと思う。日本語のときとは違う、ぎこちない自分がそこに立っている。その居心地の悪さが、口を閉じさせる。
失敗してはいけない。恥ずかしい思いをしたくない。私たちの英語を止めているいちばんのブレーキは、たぶんこの気持ちだ。
カラオケでは、なぜか平気になる
ところが同じ人が、カラオケでは洋楽を歌えたりする。サビで声を張り、巻き舌までまねして、意味もよくわからない英語を堂々と口にしている。
歌のなかでは、「自分」が少し後ろに下がるからだろう。発音しているのは自分じゃなく、その曲の主人公だ。メロディとリズムが、ぎこちない音をそっと包んでくれる。
それに、カラオケはもともと下手でいい場所でもある。音程を外しても、歌詞に追いつけなくても、笑いになって終わる。教室ではあれほど重かった恥ずかしさが、ここではほとんど消えている。
そういえば、フィリピンはカラオケの国だ
ここで、冒頭のお手伝いさんたちを思い出す。フィリピンは、カラオケが大好きな国として知られている。家族の集まりでも、近所のパーティーでも、人前で歌うことにためらいがない。
下手でも笑って歌う。その感覚が、英語を話すときにもそのまま生きているのかもしれない。
恥ずかしさの少なさだけではないだろう。日々の歌のなかで、音をまねする耳やリズム感も育っているはずだ。英語のリズムをつかむ力と、歌を歌う力は、きっとつながっている。
一曲歌えると、口が覚えている
一曲を最後まで歌いきると、小さな変化が起きる。自分の口からも、ちゃんと英語の音が出るのだと知る。
「want to」が「ワナ」になる感じや、言葉と言葉がつながって流れていく感じ。教科書では説明されてもピンとこなかったことを、口のほうが先に覚えている。
そして、人前で英語の音を出した経験が一回分たまる。恥ずかしくなかった、という記憶が残る。その記憶が、次に英語で話しかけられたとき、ほんの少し背中を押してくれる。
やさしい日本語が、英語を助けていた

この話を弟にしたら、少し違う角度のことを言われた。
「いつも難しい言葉を使わずに、わかりやすい言葉で話してるでしょ。だから英語も上達したんじゃない?」
言われてみれば、そうかもしれない。英語で話そうとすると、つい、頭の中の難しい日本語を、そのまま英語にしようとしてしまう。そして、知らない単語にぶつかって、そこで止まってしまう。
でも、ふだんから誰にでもわかる言葉で話していると、英語でも同じことができる。知っている単語だけで、言いたいことを言いかえられる。中学で習った単語でも、案外ちゃんと伝わる。
カラオケが「恥ずかしさ」のハードルを下げてくれるなら、やさしい日本語は「言葉選び」のハードルを下げてくれる。英語の上達は、ふだんの日本語の話し方から、もう始まっているのかもしれない。
最初の関門は、文法じゃない
英語を話せるようになるための最初の関門は、単語帳でも文法書でもないのかもしれない。ぎこちない英語の音を出す自分を、自分で許せるかどうか。知っている言葉だけで話す自分を、許せるかどうか。たぶん、そこがいちばん高い壁だ。
だったら、いきなり会話から始めなくていい。まずは好きな一曲を、カラオケで歌えるようになるところから。話すときは、難しい言葉を探さずに、知っている言葉で。
あのお手伝いさんたちのように、下手でも笑って声を出す。英語を話せる日は、案外マイクを握ったその先にある。
